二宮尊徳の孫・尊親翁と報徳思想

二宮尊徳、別名の二宮金次郎のほうが耳馴染みがあるかもしれません。薪を背負いながら読書する少年の像の元になった人物です。実は二宮尊徳は少年時代よりも、成人してから果たした功績のほうが大きいのをご存じでしょうか。

20代のうちに生家を立て直し、荒廃した農村を復興。道徳と経済の両立を説いた「報徳思想」を唱えています。日本資本主義の父とも言われる渋沢栄一も、尊徳を深く尊敬していたそう。この尊徳の孫にあたる二宮尊親翁が、豊頃町の開拓に大きく関わっています。尊親翁の根底にあったのは、祖父の尊徳が唱えた報徳思想でした。

報徳思想は「至誠」、「勤労」、「分度」、「推譲」の四綱領から成り、自然の徳や恩に報いることをいいます。最も核となるのが、「至誠」です。人間の根本を形成するもので、「誠」「真心」をもって一心を貫き通すこと、影日向なく真面目に生きることを言います。

至誠が報徳の土台となり、それを支えるのが勤労、分度、推譲の三本足です。工夫し計画しながらよく働く「勤労」、経済状況のバランスの大切さを説いた「分度」、将来に向けて生活の中で余った利益を貯めておき、時には譲る「推譲」。一つでも欠けてはならないのです。

豊頃町役場前にある尊親翁の祖父・二宮尊徳の銅像。

祖父の遺志を引き継ぎ、相馬の農民を救う

話を二宮尊徳と尊親翁に戻しましょう。祖父の尊徳は全国各地で報徳仕法を実行していました。その数、一生涯で600村と言われています。天災などで財政の悪化に見舞われ、苦しんでいた相馬藩もその一つです。尊徳は報徳思想を元にした「相馬仕法」によって、見事再建を成し遂げます。

アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが黒船を率いて日本へやってきた頃、尊親翁は安政2年(1855年)、栃木県日光市にて父・尊行、母・鉸の長男として誕生、幼少期を過ごしました。尊親翁は「そんしん」と呼ばれることが多いですが、正式には「たかちか」と読みます。

尊親翁が生まれた翌年、尊徳は70歳で生涯を終えます。その後戊辰戦争の時、尊親翁の父・尊行は福島の相馬藩から招かれ、一家は日光から相馬へ転住しました。

相馬仕法によって立ち直った相馬藩でしたが、明治4年に廃藩置県がなされ、仕法は中止となってしまいます。そこで立ち上がったのが二宮尊徳の一番弟子であった富田高慶と尊親翁でした。明治10年、尊親翁は祖父の遺志を継ぎ、相馬で興復社を結成します。

明治10~20年頃の北関東は天災が続き、農村が破壊され、そこに住んでいる農民の生活は苦しく、精神的にも荒廃している姿が見られました。尊親翁は農民が抱えていた多額の借金をなくすために無利息で金を貸し、その返済方法を指導しました。同時に一生懸命働いた農民を表彰して励まし、農民にやる気を高めさせ、苦しい環境を変えるための自助努力(勤労・倹約)を教えました。また、人は自然や人との関わり合いのなかで生きていますので、それらに対し感謝の気持ちを持って返すことも伝えました。祖父が説いた報徳精神を、身を持って実行したのです。

興復社は始めの頃は順調でしたが、社員は少なく、事業も多忙のため、すべての農民へ報徳精神を伝えるまでにいたりませんでした。そうすると納金を延滞する開墾人が現れたりして、資金繰りが悪化。明治23年に富田高慶が病死したことを契機に、尊親翁は政府が開拓を推し進めていた北海道へと新天地を求めたのでした。

毎年秋に報徳二宮神社で行われる、二宮獅子舞神楽。町の指定文化財にもなっています。
二宮構造改善センターの横にある尊親翁の墓。

新天地の北海道で広がった報徳思想

明治30年、ウシシュベツ原野の一画(豊頃町二宮)に辿り着いた尊親翁一行。ここは新しい村づくりに適した理想の地であると入植先に決め、相馬から豊頃への入植を開始しました。

当時の北海道には一部ですでに大農場ができており、大農場の小作人として働く人が大勢いました。新たに小作人が土地を取得し、独立して農民になることは難しかったのです。それに農場主の多くは不在地主として多くは東京に滞在していました。しかし、尊親翁は自ら入植地に入って先頭に立ち、入植した農民への村づくりと農民の独立に取り組み、開拓を成功させたのです。これは大農場では極めて稀なことと高く評価されています。
 
興復社の特徴ある取り組みの一つに「芋コジ」という例会があります。毎月20日(二宮尊徳の命日)、農民たちは話し合いや研究の日にあてました。尊親翁は故郷を離れて入植した農民たちに、苦しい環境を乗り越えるための自助努力と助け合いを諭し、立ち向かうよう講話で鼓舞しました。この気持ちの持ちようを心田(しんでん)開発といい、芋コジを通して行われました。さらに厳しい状況の中で働く人を大切にし「力農篤行者(りきのうとっこうしゃ)」として表彰しました。

尊親翁は現地で10年間指導し、成功を確信して相馬へ戻りました。実際、開拓は順調に進み、明治40年には興復社は840町歩(ヘクタール)の開墾と160戸の農家の自立を達成、道路6951間(3.3キロ余)、橋梁61ヵ所を整備しました。報徳共助の農村は、その後も新しい時代の農業に即応して発展を続けます。現在の豊頃では、尊親翁の当初の計画5町歩(約5ヘクタール)の7~8倍にもなる大農場が連なっているのです。

二宮報徳館に保存されている興復社(二宮)農場員名札。
書類作成などに実際に使用された木版。染み込んだインクの跡が歴史を感じさせます。

現代に受け継がれる「報徳のおしえ」

報徳の精神は今も受け継がれています。町内の小中学校では「報徳のおしえ」を学ぶ授業が行われ、豊頃の子どもたちは、報徳のおしえを胸に刻み成長していきます。

また二宮地区では、明治35年に移住民の自主的な報徳実践組織として「牛首別報徳会」を設立。以来120年以上にわたって報徳のおしえを実践し、尊親翁一行がウシシュベツ原野を入植地として定めた明治29年7月29日を「探見記念日」とし、先人たちが多くの困難を乗り越え築いた土地に思いを馳せながら、報徳のおしえを継承してきました。

そして現在は全国各地の報徳にゆかりのある地や団体との交流も盛んで、例年開催されている「報徳サミット」にも参加しています。2021年はオンラインで開催され、豊頃町からは按田町長と、豊頃町出身の島崎愛彩(まなさ)さんが参加しました。将来にわたって報徳のおしえを受け継いでいくための実践が続けられています。

町内の小中学校では報徳のおしえを盛り込んだ授業を行っています。

豊頃から世界へ。報徳のおしえを学び育った次世代

小中学生の頃に報徳のおしえを学び、世界に羽ばたこうとしている若者がいます。中学3年生のとき、豊頃町の姉妹都市であるカナダのサマーランドを訪問したことがきっかけで英語に興味を持ち始めた島崎愛彩さん。高校2年生で、全国47名、道内4名が選出されたグローバルユース国連大使となってからは、外国人と討論する機会が増えてコミュニケーション能力が向上しました。「いいことばかりではなくて、英語が通じない壁にぶち当たりました。でも相手は同じ人間だからと自分に言い聞かせて乗り越えました」。厳しい環境に自ら挑んで成長したいという島崎さん。高校卒業後は、大分県の国際関係専門の学科を有する大学に進学します。

島崎さんの実家はばん馬の繁殖農家。全校児童の少ない大津小に通い、同学年は1人だけという環境で育ちました。地域の大人と関わる機会も多く、故郷のことを好ましく思っています。「豊頃はご近所付き合いがしっかりあって、相談がしやすい。友人は都会に行きたいと言うけれど、私は地元にも良さがあると思う」と話す島崎さん。全国報徳サミットにも参加するなど、場数を踏んで着実に力をつけています。報徳のおしえの元で育ち、成長していく彼女の将来が楽しみで仕方がありません。

島崎愛彩さん。

二宮報徳館
二宮尊親翁の資料を所蔵・展示する資料館

二宮尊親翁直筆の「報徳訓額」や愛用していたコートなど、尊親翁に関連する資料をはじめ、豊頃町の郷土資料も充実しています。豊頃町のこれまでのあゆみを知るうえで、ぜひ訪れてほしい施設です。

北海道中川郡豊頃町二宮2460
TEL 015-574-3126
開館時間 4月~11月まで
閉館日  不定期