全国の写真家や観光客から注目を集めるジュエリーアイスが見られる豊頃町大津地区。その歴史は古く、特に明治期には2千人もの人が住む、十勝で最も栄えた地域でした。

海と川に抱かれた小さなまちは、150年以上にわたって歴史を築いてきました。

明治期は十勝をリードする中心地

明治期の大津は十勝の中心地でした。明治16年、十勝開墾の立役者である依田勉三率いる晩成社も、大津から十勝へと上陸しています。明治27年になると、北海道集治監の受刑者によって大津―芽室間を結ぶ大津街道が開通。

明治30年には、函館から大津への北海道庁補助定期船が就航。北海道開拓を志す本州の人々が船に乗って、十勝へとやって来ました。大津は海の玄関口として、多くの開拓志願者を迎えたのです。この頃の大津には、郵便取扱所、簡易教育所、巡査駐在所なども設置されました。

当時から大津一帯の主要産業は漁業でした。開拓に必要な物資の売買も盛んで、それらで稼いだ人による立派な家屋も数多くありました。全盛期には人口2千人、戸数350以上。今の10倍近い数字です。けれどもピークは早々に訪れ、明治35年を境に人口が急激に減少し始めてしまいます。原因はサケの不漁。明治30~40年代は漁獲量が急に下がっています。

さらには明治35年に起きた博徒どうしの抗争による大津事件の発生。明治36年に大火が発生し3分の1の家屋が焼失したことによって、一旦は大津から人が離れていきます。

十勝発祥の地の石碑。豊頃町開基100年を記念して作られました。
『北海立志図録』(高崎竜太郎 著)/国会図書館所蔵
『北海立志図録』(高崎竜太郎 著)/国会図書館所蔵
  • 明治23年に出版された『北海立志図録』には、大津全盛の頃がよくわかる絵図が掲載されている。洋館、電信、ガス燈が見られ、明治の文明開化の波が大津まで届いていたようです。

一攫千金、サケを求めて全国から

大正時代に入ると、再び人が集まるようになります。人々を引き寄せたのは、秋サケの力。一攫千金を狙った海千山千の民が、大津へやって来ました。
ご存じのように、北海道は全国から移住民が集まって開拓された地域です。大津も例外ではなく、大正2年の転籍簿によると、石川、福島、新潟、青森、岐阜、秋田などからの転入者が見られます。北海道の他の農村地帯と異なるのが、出稼ぎ労働者が多いところ。秋サケの時期になると、故郷に家族を残した男たちが集ったのです。この傾向は昭和の時代にまで続くことになります。その中から一部の人が定住し、大津の人口は増えていきました。

写真左/大正4年の火災後にできた大津村役場の庁舎。(豊頃町所蔵)
写真右/大津には大正9年に創業した「若林造船所」がありました。戦後、漁師たちがこぞって船を造ったそう。(写真提供/中村純也氏)

昭和の賑わいから平成・令和へ

昭和に入り、戦後を経て高度成長期になると大津市街は活気にあふれます。現在は廃校した大津中学校には、1学年に25名が在籍。5~6軒の商店と食堂が2軒、子どもが多かったことから駄菓子屋もありました。漁業はというと、船にエンジンがなく、港もなかったので、馬を使って砂浜から船を出していました。漁のあるときは、船員は漁場のそばの番屋で寝泊まりです。親方、帳場、若い衆が、タコ部屋のようなところに15人ほど。麻雀や花札といった娯楽で時間を潰しながら過ごしていました。

砂浜を駆ける馬たち。エンジン付きの船が台頭するまでは、馬は貴重な動力だった。(写真提供/中村純也氏)

昭和54年には、待望の掘り込み式漁港が完成。地元の漁船や十勝管内の遊漁船の拠点基地港として利用されています。現在も全体に占めるサケの漁獲量の割合は8割以上となっています。北海道全体でサケの漁獲量が減少している中、大津では養殖に挑戦するなど、若い世代を中心に新たな試みに取り組んできました。歴史ある大津の漁業を守るため、さまざまな手段が模索されています。

津波の襲来は、住民に覚悟を決めさせた

太平洋に面し、十勝川河口が隣接する大津の歴史は、水害との戦いをなくしては語れません。幾度となく訪れた水の脅威に人々は学び、6~7メートルはあろうかという今日の高い堤防が築き上げられました。『豊頃町史』によると、明治初期から昭和40年頃までの100年間で、30回以上の水害が記録されています。大雨、洪水、巨大台風、そして津波。特に昭和35年5月に発生したチリ地震による津波は、大きな被害をもたらしました。早朝、波が一気に引いた後、壁のような高い波が襲いかかってきたのです。漁船は打ちのめされ、地割れも発生。体感する地震がなく、不意打ちのように起きた津波でした。その後も平成15年の十勝沖地震、平成23年の東日本大震災で大きな津波が押し寄せました。津波や水害の恐ろしさは、伝え継がれてきました。その証拠に、大津地区には世帯人数、年齢、車の有無をもとに作られた詳細な防災マップがあります。ひと目でわかるこの地図は、伝承と経験によって行き着いた身を守る手段のひとつです。

昭和35年に発生したチリ地震の津波を受けた大津。漁船、家屋、番屋、漁具などが多数流失しました。(豊頃町所蔵)

古くから大津の住民にとって冬の日常的な風景であるジュエリーアイス。歴史ある大津が、今改めてこのジュエリーアイスによって注目を浴びていることは好ましいことです。ですが、この幻想的な景色を求めてやってきた人々のうち、どのくらいの人が十勝の礎ともなった深い150年の歴史を知っているのでしょうか。

そびえ立つ堤防、立ち並ぶ民家、高台の学校…。まちの風景から大津が辿ってきたストーリーを感じられます。自然の脅威にさらされながら、人々が生き抜いてきた日々。過去に思いを馳せながら、大津を訪れたいものです。

避難場所に指定されているトンケシの山から眺めた、現在の大津の街並み。